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百姓3年目に突入

2008.12.10.17:44

一人で畑を耕し、農園を始めてから3度目のそらまめをまいたのは10月末。もうそらまめは本葉を出して、その大きさで厳しい冬を越す準備を始めている。あまり小さすぎても、大きすぎても寒さにやられてしまう。豆の種まきの適期は1週間と短く、特にまく時期を選ぶとも言われ、1週間ずれてもだめな場合がある。寒さに向かうこの季節ならなおさらのこと、生死に関わる1週間なのだ。

この2年間を振り返ってみると、よくも一人でやり通すことができたなあと自分で自分を誉めてあげたい気もするが、自然の摂理のなかでただただ生かされただけと深く実感した2年でもあった。
八郷は特殊なのか私の畑からは昔の土器のかけらが多数でてくる。初めは瓦の割れたものと思っていたのだが、よくよく見ると教科書でみたことのある模様がついている。それが縄文のものかは定かではないが、決定的なのは八郷の公民館の縄文時代の器などを展示してあるショーケースの中にあるものと同じものが私の畑からも出てきたことだ。だからかけらも縄文のものと思うことにしている。
畑で鍬を振っていると30数年前、またはもっと前のお百姓さんと同じ場所で同じことをしている自分というのが見えて、時空を飛ぶ感覚を非常にうれしく思ったものだが、縄文の3000年前までとなるとスケールが違う。今こうして畑をやっていても自然と交信していると感じることがたまにあるが、縄文のころは人と自然とはもっと激しく親密な交信を交わしていただろうと思う。こうして一方的に自然の恵みを与えてくれる自然に人は深々と頭を下げ、恐れ、敬い、願い、感謝して生きていたのだと思う。
私には「神様」というものがものごころつくころから教育されていたので、今おてんとさまに頭を下げても「ああ、神様!」になってしまうのだが、つい最近、それは順序が違っていたのだと気がついた。宗教があるから信じ、願うのではなく、自然が神より先にあり、それを「かみ」という名前をつけないと言い表わせなかったから人はその言葉を作ったのではないか。今の社会のように邪念で満ちていると、人と自然との回路は閉ざされているが、なんとこのような百姓暮らしをしていると、たまにパカッ、パカッとその回路は開くのであった。それはまさに縄文体験だ。
こうして縄文の心に思いを馳せながら自然をみているとまた違った風景が見えてくる。彼らと同じ目線で、日没後のサーモンピンクに光りだす筑波山を眺め、満月のあかりで道を歩く。日本の神々は本当に人に優しく、近しい存在だ。敬うことで彼らも恵みを約束してくれるのだ。私は今この現代に生きながら、同時に非常に神話的な世界でも生きているようだ。この心優しい神々に見守られながら、ここで百姓3年目に突入。「安心して耕せ」と風の神が耳元でささやく。
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プロフィール

縄文ふたば

Author:縄文ふたば
茨城県石岡市(旧八郷町)で百姓暮らしをしています。日々畑と会話し、いろんなことを教えてもらっています。

 1968年に愛知県に生まれる。約10年、障害をもっている人ももっていない人も共に地域で生活し、働くということで活動している市民団体「わっぱの会」(名古屋)で生活支援の仕事をする。2005年スワラジ学園で半年、あとの半年は鹿苑農場で研修生として、1年間百姓暮らしを学ぶ。2006年10月から石岡市(旧八郷町)に住み、百姓暮らしを始める。

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